善光寺&北向観音

2008.11.16


早朝、6時頃、善光寺に到着した。
此処へくるのは何年ぶりだろうか。
大学2年の夏に来た記憶がある。
だから、ざっと数えても、40年は経っているだろうか。
歳月の経つのは、いまさらながら、早いものだ。

昨日からの天気予報では雨模様。
予想にたがわず、朝まだき、空は厚い雲が垂れ込め
何時雨が落ちてきても不思議はない。
山門近くの駐車場に車を停める。
参道のお店も、すでに開店しいるところもあるから驚きだ。

そして、参拝客もすでに、かなりいるではないか。
真っ直ぐな参道の彼方に、
宝永四年(1707年)に落成したという大きな本堂が聳える。
灰色の重たそうな雲を背景にして、優美で荘厳な姿が浮かび上がる。

参拝客はそぞろに参道を進む。
その先に朱色の大きな傘を持つ従者を従え、
進む僧侶とその一団が、本堂へ消えていった。
私達は本堂の前の大きな香炉に、
お線香に火をつけ焚いた。

本堂は二重入母屋造り。
栩葺き屋根に抱かれて、善光寺の扁額が金色に耀く。
彫り上げられた金彩の扁額は「鳩字の額」と言われている。
五羽の鳩がとまっているかのように描かれた「善光寺」の文字。
そして、善の文字には牛の顔が隠されている。

本堂の板の階段の木目は浮き出ていた。
いったい、どれほどの人たちが、この階段をの登ったのであろうか。
さまざまな人生を背負った人々が、
悲喜こもごも、それぞれに願いを込めて、
雨の日も風の日も、深く降り積もる雪の日も、
この階段を1歩一歩踏みしめたのだろう。

鰐口を打ち、お賽銭を置き、手を合わせる。
本堂の広い畳敷きの内陣では、大勢の参拝の人たちが正座をしている。
僧侶たちの読経が響く中、
善光寺全山の僧侶が出仕して勤める厳かな法要、「お朝事」が始まっていた。
そして、念仏を唱えて一心に祈れば、
すべての者を、男女別なく、平等に、皆極楽浄土に導いて下さるらしい。

私達も靴をビニール袋に入れ、内陣の畳に神妙な気持ちで座る。
さらに、僧侶の読経は声明のように堂内にこだまする。
祭壇に向かう住職さまの端然として座る後姿は、
凛として美しくも神々しい。
天井には大きな天蓋が吊るされ、祭壇は幾星霜、
民衆の信仰を支える厳かで、神聖な聖域の耀きをたたえる。

やがて、読経は終わった。
私達は席をたち、内陣脇の通路から「お戒壇巡り」へ出かけた。
すぐに、階段があり降りる。
噂には聞いていたが、まさに漆黒の闇の世界。
頼りは、右手で触る壁板。

手を這わせながら、恐る恐る進む。
前を行く私達と、多分、私達と同じ世代の夫婦。
暗黒の恐怖か、奥様の怯えた力ない声が、
何も見えない静寂の世界をかき乱す。

2回、3回と曲がりながら、
見えない地下の廊下を手探りで進むと、
すーっと一条の明かりが射し込んだ。
闇世界に射し込む光りは、人の心に救いと安心を齎すのだ。
階段を登り歩くと、元の入り口に辿り着いた。

すると、善光寺の人が語りかけてきた。
「極楽の錠前」に触ってきましたか?」
いったい何処にその錠前はあったおだろうか?
「もう一度行ってくるといいですよ」
そこで、我々は再度挑戦する事にした。

その錠前に触れると、
これまで、けっして公開されることのないご本尊と、
縁が結ばれ、極楽往生が約束されるという。
教えられた通りに、腰の位置に手を置いて、
恐る恐る進むと、中ほどいその錠前はあった。

かなり太くて、握り部分も大きな錠前である。
この錠前の上に、いまだ誰も見たことのないご本尊がいらっしゃるのだ。
でも、なぜあの善光寺の人は、私達に教えてくれたのだろうか。
参拝の人たち皆に、教えているわけではない。
私達に教えてくれたのは、たんなる偶然だろう。
でも、その偶然が人の心に感謝を運ぶ。

本堂を出て階段を降り、境内へ。
気にしなければ、傘をさす程でもないほどの霧雨。
朝の冷気の中、晩秋だというのに、さほどの寒さも感じない。
秋色に色づいた境内の木々を眺めながら、本堂の裏手を回る。

細雨にぬれそぶる梢の葉が、しっとりと情趣を醸す。
その木々の中、等身大よりも小さな、二頭の乳牛の置物があった。
名前は可愛らしくも、善光寺に因んだ、善子と光子の親子牛だ。

さらに進むと、本堂脇から境内に出た。
すると、本堂前の濡れた参道の石畳に、人の長い列。
時間は7時だった。
私たちも、その列の最後尾に並んだ。
すると、朱色の大きな傘に護られながら、
先ほどの住職さまが本堂の階段を降りてきた。

すると、列の人々が屈み、前に頭を垂れた。
私たちも、同じような姿勢をとった。
すると、住職さまは数珠を持ちながら、
一人一人、頭に触れながら、足早に、颯爽と進む。
そして、私たちの頭にも、その手が微かだが、
はっきりと触るのがわかった。
偶然にも、「お数珠頂戴」に与ったのだ。

私たちの後に並んだ人たちへも、次々に手を差し伸べていた。
真っすぐに、そして、稟然として、参道を過ぎ去って行く。
さらに、すれ違いざま、屈み、
頭を垂れるものたち全てに、手を差し伸べている。
住職さまは女性で、とても小柄であったが、
遠く過ぎ去る後ろ姿は美しく、そして、何時までも大きく耀いていた。

参道の店々はすでに開店していた。
私たちもあちらこちらを覗きながら買い物をした。
山門を出る頃には、雨は上がっていた。
早朝の門前町はまだ静かだった。
お店の人が、お店の前の枯れ葉を、
昔懐かしい竹帚で掃き寄せていた。

そして、近くにある酒蔵「西の門」へ。
歴史を紡ぐ、低く、長い木戸を潜り抜けると、酒蔵の玄関に着いた。
木造の趣のある酒蔵には、他には誰もまだいなかった。
玄関横には試飲用のお酒がたくさん並んでいた。
酒蔵のはっぴ姿の若いお兄さんが
次から次と小さなカップにお酒を注いでくれた。

注がれたお酒はほんの僅かだが、何分数が多い。
さまざまなタイプのお酒を、朝の8時ころから飲むとさすがに効く。
するりするりと五臓六腑に沁みわたる。
純米大吟醸、純米吟醸、袋絞り、ひやおろし、特選純米。
優しく、さりげない説明を聞きながら杯が進む。

隣の部屋で、ママがこちらを見ながら、
朝っぱらから、またかと怪訝な顔をしている。
早朝の酒はやはり旨い。
昔はこれで、アルコール性肝障害になった。
ところがどっこい、今日はまだまだこれからの予定がある。
純米吟醸を一本買い込み、酒蔵を後にした。

駐車場の車は少し増えていた。
車に入るや、買い込んだ「純米吟醸西の門」の封を切る。
そして、グラスに注いで大名気分。
たちのぼる豊潤な吟醸香をかぎながら、
愉悦に浸りながら、別所温泉に向かった。
雨は霧ほども濃くなく、かすかに降っている。

窓外には晩秋の木々の紅葉が広がり、
はらはらと枯れ葉が舞い落ちる。
緩やかな傾斜の信濃路を進むと、やがて、青木村に到着した。
ここはママのお母さんの故郷。
一度は来てみたいところだった。
ところが、私が想像したイメージとは大きく乖離していた。

東急グループの巨大財閥を築きあげた五島慶太の誕生の地が青木村。
寒村僻地だった村の小学校や中学校に、
たくさんの寄贈をしたと聞いている。
日本を背負う若者たちの将来のために。

今ではどこでもそうであるが、地方もかなり都会化している。
それも、モータリゼーションと通信ネットワークの発達なのだろう。
都会に育った私の勝手な思いだが、
故郷の懐かしい想いが薄れかけているのは、いたしかたないことだろう。

やがて、大勢が集まる広場があった。
好奇心いっぱいで車を停めて出かけてみた。
広場にはたくさんの売店が店開きしていた。
地元の有志達が、様々な物を売っていた。
そして、小学生の子供たちが、
地場産の農作物を、元気よく売っていた。

私もその売り声に誘われ、
ついつい大根や干し柿など買ってしまった。
自然の中で育つ元気な子供たち。
日焼けした顔にあどけない笑顔。
都会の子供たちが失くしかけている大切な子供の財産。

すると、広場で太鼓を打ち鳴らす音。
音に誘われて広場に行けば、
小学生の女の子たちが和太鼓を威勢よく叩いていた。
バチさばきさばきも見事に、
半纏を着たいなせなお姉さんたちの振りも揃って、
見事なヨサコイソーラン。

そして、その横では黒に命を大きく染め抜いた着物を着流し。
眩しいほどに白いズボンはいて踊りだす大勢の若者。
寒さをものともせず、肌けながら胸を晒している。

さすがに女性陣は肌だけていないが、元気さだけは負けていない。
気合、掛け声も勇ましく、
リズムよく軽快に、そして力強く整然と踊る。
高度経済成長の時代、地方の文化が疲弊した。

しかし、最近は地方の在り方が見直され、地方が活性化してきた。
村の若者たちが、自分たちの住む伝統ある文化を継承して、
新たな文化を生み出し始めたのだろう。
ソーランの掛け声を後にして、今日最後の目的地、別所へ向かった。

すでに、2時を回っている。
途中、蕎麦屋により昼食をとる。
ママはさすがに長い運転の旅。
天ぷら蕎麦を美味しそうに食べている。
私は食欲もあまりなく、
軽いつまみで、生ビールと燗酒を一本。
一休みして、目的地に向かった。

ほどなくして、別所温泉に到着した。
昔見た、歓迎のアーチが懐かしい。
川沿いの上り傾斜の道を進むと、
今日泊まる予定の旅館があった。
駐車場に車を停めて、北向観音へ続く裏参道を進む。

僅か2分位で到着した。
さすがに晩秋の小雨模様の一日、日はだいぶ落ちていた。
南向きの善光寺に向かって立つ北向観音は、
山寺のように小さく優美であった。
雨に濡れた境内にはぱらぱらと参詣の人々。

長い歴史の間、一段一段登られた木の階段は、
木目が浮き出て文様を描く。
本堂前の綱を引き、鰐口を鳴らす。
そして、無心に手を合わせる。

そして、ぶらりと常楽寺へ出かけた。
天気もだいぶ回復模様。
里山の雨上がり、美味しい空気を吸いながらの散策。
思いのほか、観光客が多かった。
そして、圧倒的に私たち世代の人たちだった。
やがて、常楽寺へ到着した。

常楽寺は北向観世音の本坊。
本尊は「妙観察智弥陀如来」で、天台宗・金剛山・照明院常楽寺。
北向観世音堂が創建された時、
天長二年( 825 年)、三楽寺の一寺として建立された。
鎌倉時代、神聖な霊場であり、天文教学の道場でもあった。

静謐で凛とした趣の禅寺は清楚。
あたりの空気にも霊妙を感じる。
本堂の前には、緑をたたえた赤松が優雅に舞う。
樹齢300年の「御舟の松」

地を這うように、空に舞うかのような全長20メートルの枝ぶりは見事だ。
最近は赤松の虫食いがひどく、伐採されてしまうところも多い。
何時までも、優美な姿が続けばなどと、いらぬ老婆心。

そして、常楽寺後にして、崇福山・安楽寺へ出かけた
とぼとぼと、信州の鎌倉路を歩きながら進む。
やがて、山門に到着した。
雨に濡れた杉木立に囲まれた急峻な石段を登り、
山門を潜れば、正面に本堂があった。

石畳の細い参道の先に、
本堂の茅葺き屋根が、なだらかなで典雅な姿を見せていた。
参拝を済ませさらに、昭和27年国宝指定の八角三重塔へ。
その途上、古池があった。
紅葉に包まれた池には、たくさんの枯れ葉の鮮烈な色彩。
雨に蒸れて紅葉の色が匂うようだ。

そして坂の道を進むと、八角三重塔が優美に翻っていた。
鎌倉末期に建立されたといわれる、禅宗寺院に残る唯一の塔婆だ。
常緑の松に囲まれ、名残の紅葉に照り映える塔婆。
晩秋の日は少し傾きかけてきた。
 初重に裳階をつけ、匠な意匠の唐様八角三重塔の荘重な舞い。

時はすでに4時を回っていた。
階段をを下り、古池の紅葉を愉しみながら、山門へ。
そして、今は枯れ錆びた蓮池を眺めながら進めば、黒門が私たちを待っていた。
扁額には崇福山(そうふくざん)と書かれていた。
寛政4年(1792年)に建てられたものだ。
門を潜りしばらく行くと、北向観音へ到着した。

階段を降り境内に戻り彼方を眺めれば、
信州の山に抱かれた別所の町が見渡せた。
夕暮れも近く、なだらかな山々が幾重に遠く近く折り重なる。
そして、霧のような灰白色の雲が流れていた。
境内から参道の階段を下る。
狭い参道の両脇には土産物屋などが並んでいた。

川沿いの細い道には小さなお店が踵を接しながら立ち並んでいた。
そして外湯の「大師の湯」があった。
さらに、物見遊山、そぞろに歩くと旅館に着いた。
旅館では若い女将さんが出迎えてくれた。

チェックインを済ませ、4階の部屋へ。
部屋の前庭は見事に紅葉の景色。
その向こうには、北向観音の屋根が見える。
朝からの長い旅はやっと終わった。

部屋で一休みしてから、浴衣に着かえ外湯に行くことにした。
この旅館は二つの外湯、「石湯」と「大師湯」に囲まれている。
まずは、少し上り坂の道を進み「石湯」へ。
真田幸村公の隠し湯は岩の間から吹き出すという。

趣のある唐破風の玄関をがらりと潜る。
そして、旅館から頂いた入浴券を出して中へ。
小さな脱衣所から湯槽へ。
温泉特有の懐かしいにおい。

身体を洗い、湯槽に浸かる。
湯温はかなり熱かった。
狭い湯槽には、すでに、5人くらい、
額に汗をかきながら、じっと肩まで浸かっていた。
最初は身体の芯を刺すように硬い湯だが、
時間とともにだんだんと身体が包まれて優しく感じてくる。

やがて、胃や腸が元気にぼこぼこと蠕動するようだ。
どこから運ばれたのか、
黒い大きな岩に抱かれた湯槽の湯はまさに癒しの湯。
私以外はみな地元の人たちだ。
きっと、朝な夕な気ままに湯と親しんでいるのだろう。

そして、湯から上り着替え、「大師湯」へ出かけた。
慈覚大師が北向観音堂を建立するため、
別所に滞在したおり、好んで浸かったという。

そして、安楽寺開山の椎谷、2第目幼牛禅師の木造が、
人目を盗んで夜な夜な入浴。
里人は、木造の目を抜き取ってしまったという伝説の「大師湯」
夕靄せまる道を下り、旅館の前を過ぎると、ほどなくしてあった。

入浴券をだして中へ。
先ほどよりはさらに小さかった。
身体を流し湯へ。
じっとりと、源泉の湯味が染みる。
外湯の源泉はまさに薬師の湯。
さまざまな病を治してくれることだろう。

「大師湯」を出て外へ出れば、川端にそよぐ微風も冷たく、
旅館の玄関には灯が灯り始めた。
部屋に戻ればすでに時間は6時近く。
夕食は6時半に部屋に運ばれる。
ゆっくりと旅の汗を流したあと、食欲満点。
地酒を愉しみながら、信州の秋の幸満載!
食欲の秋を満喫しよう。