短編小説「バーKAGURAZAKA」物語 田村 聰明 ![]() 神楽坂の毘沙門天へ向かう坂道を上る途中、右手の小路を入ると今も下町の風情を残す石畳の路地が広がる。 道は狭く網の目のように伸び慣れない人には行き止まりの意地悪をする。 かつては料亭や待合が並びたち昼間から芸妓の三絃が聞こえる花街であった。 だが今は数える程の芸者衆が花柳界の灯を守る。 そんな界隈の路地裏にも最近は瀟洒なレストランやバーなどができ、若者たちの人気スポットになっている。 その路地の一角に懐かしい昭和を漂わせるバーがある。 夕方の六時になると玄関横の黒い壁に、「バーKAGURAZAKA」のネオンサインが灯る。 店の中は昔気質のマスターが毎日磨き上げる床板が板目を浮かべ焦げ茶色に鈍く光っている。 漆塗りの広いカウンターは何時も漆黒に輝く。 昔ながらの方法で飲み残しのビールをカウンターに流し、布巾で乾拭きをしてみ磨くのであった。 マスターは背の高い椅子に座り仕事前のコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる。 開店してから暫らくの間お客様は滅多に来店しない。 その時はマスターの大切な至福の一時である。 店内にはターンテーブルの上で回転するレコードが流れ、チェット・ベーカーのトランペットが甘く囁くように響く。 マスターは若い頃の事をほとんど語らない。 出身は埼玉県秩父であることは確かなのであるが、滅多に自分の故郷のことを語ることはない。 だが毎年十二月三日が来ると深い思いに耽る。 その日は秩父の夜祭り、秩父に育った人間には秩父夜祭は時別な日なのであろう。 マスターは今年で六十七歳になるのであるから団塊の世代であり、すでに鬼籍に入った友達もいる。 今はマスターの口髭も白くなり頭頂も薄くなりかけてはいるが、背筋を伸ばし年を感じさせず凛々しい。 それはマスターの美学であり人前に立つバーテンダーの譲れない矜持でもある。 二月の肌寒い夕刻、路地裏は音もなく都会とは思えないような静寂が訪れる。 そして時折駒下駄の音が響く。 それは芸者さんが仕事に出かける宵が近づいていることを知らせる。 新聞を読み終えさくりと居住まいを正して椅子を離れ、カウンターの端のスウィング・ドアを開けてカウンターの中へ入った。 グラスやボトルが並ぶバック棚横の鏡に向かい大きく深呼吸し、黒のボータイを直したあと、黒い革のベストの端を下へ引き伸ばす。 それは仕事へ入るマスターの毎日の儀式であり、今日一日が始まり無事に終わることを鏡に誓うのであった。 昔はバーテンダーの弟子も取りホールに若い女の子もいた。 その若い従業員も今は結婚をして子供もいる。 すでにお孫さんがいる人さえいるから歳月の経つのは早い。 今でも何かの折に「バー・KAGURAZAKA」へかつての従業員がやって来てくれる。 それはマスターが神楽坂で生きてきたことの証であり誇りであり喜びでもある。 すると玄関の扉が開いた。 年期の入ったドアは鈍い音をたてるので直ぐに分かる。 黒いオーバーコートに身を包んだ老紳士が来店した。 「開店していますか?」 「どうぞ。こちらのカウンターへいらっしゃいませんか?」 「カウンターでいいですか?」 「どうぞ。コートは壁のハンガーにかけてください」 初老の紳士と言っても多分マスターと同じ歳くらいであろう。 髪には白いものがかなり目立つ。 コートの下には黒いダブルのブレザーを着ていた。 かなり着こなしたものなのであろう、身体にフィットして柔らかなラインを浮き出していた。 ブレザーの胸元からハイカラーの薄水色のシャツが覗いていた。 さらりとした着こなしの中に粋なお洒落が顔を出している。 「お飲み物は何にしましょうか?」 「ターキーをロックでお願いします」 「ワイルドターキーですね?」 初老の紳士は静かに頷く。 マスターはロックグラスへ丸く削った氷を入れワイルドターキーを注ぎ初老の紳士の前にグラスを静かに置く。 初老の紳士はカウンターに出されたロックグラスを右手に握り、グラスの中の丸い氷をカチンカチンと軽やかな音を立てながら廻す。 そして酒紋を描くバーボン・ウイスキーをしばらく眺めている。 やがてグラスを口元へ寄せゴクリッと飲み込んだ。 その戻り香をいとおしむように微かな溜息が洩れた。 「マスター、久しぶりのワイルドターキーです」 「美味しそうですね」 「はい、いろいろと思い出のあるバーボンです」 そこへ三味線を抱え左褄をとりながら、芸者伊さ駒が入って来た。 そして初老の紳士に、 「待った?」 「いや、今来たところ」と言ってにこりと笑った。 「マスター、そうなの?」 「今、ワイルドターキーを出したばっかり。・・・・・・ですよね」と初老の紳士に話しかけた。 初老の紳士もにこりと頷く。 「少し遅れてごめんなさい」と言って初老の紳士の横へ座る。 「マスター、オレンジジュースくれる」 「バーボンじゃなくていいの?」 「これから仕事だから」 「それもそうだな」 初老の紳士「マスター、彼女は・・・・・・、バーボンを飲むのですか?」 伊さ駒「彼女だなんて・・・・・・」 初老の紳士は照れ笑いをしながら・・・・・・、 「ええ、駒ちゃんはワイルドターキーですね」 「私と同じバーボンですか?」 「ええ・・・・・・・、昔は決まっていなかったのですけど。最近ワイルドターキーになりました」 「そうですか・・・・・・」 伊さ駒「このお店、すぐに分かった?」 「少し迷ったかな、同じ道を何回も歩いたりして迷路のようだった」 「でしょ。昔からの路地だから入り組んでいるのよ。でも会えて嬉しい」 「私も・・・・・・。今更会わす顔もないのだけど・・・・・・」 「でもごめんなさいね。せっかく会えたのに仕事が入ってしまって。 今日は仕事がない筈だったのだけど、お姐さんが病気になって・・・・・・、 私がピンチヒッターで行くことになったの。だからこれからお仕事なの」 「いいよ、また会えばいいのだから」 「でも二十五年年振りの再会なのにごめんなさい・・・・・・。今度ゆっくり時間を作りますから」 「会えただけでも私は幸せだよ。次の機会を楽しみに待っているよ」 「ありがとう、もう決して会うこともないと思っていたわ。私とても嬉しいです」 「私こそ感謝している。今日こうして会えたなんて夢のようだ」 伊さ駒はジュースのグラスを両手で握りごくりッと飲んでグラスをカウンターへ置く。 そしてグラスから添えた手を放し無言でじっとグラスを眺めている。 初老の紳士の右手が微かに伊さ駒の手へ動くが途中で止まる。 伊さ駒は長い時の重さに耐えられないのか、 「マスター、私の父です!」 「駒ちゃんのお父さんですか?」 「勝手な父親です。今更父親なんて言って、会える資格はないのですが・・・・・・」 伊さ駒は五年前に母親を癌でなくし今は一人暮らしである。 愛嬌があり芸も達者な伊さ駒は連日お座敷がかかる。 朋輩への思いやりや気配りもよく、頼まれれば断れない気風が心地よい芸者である。 「今日はごめんなさい。そろそろ出かけないと・・・・・・」 伊さ駒はカウンターに置いていた紙袋から包み紙に巻かれた細長い箱を取り出した。 「お父さん、これ・・・・・・!」 初老の紳士の前に置く。 二人は見つめ合い長かった時を反芻しているようである。 そして初老の紳士はカウンターに置かれた伊さ駒の手に右手を添えた。 「由美子・・・・・・、悪かった・・・・・・」 伊さ駒もその手の上に右手をそっと乗せ、小さく顔を横に振り、 「お父さん、もういいの」と静かに漏らすように小さな声が聞えた。 「由美子、許してくれ・・・・・・」 伊さ駒の目には涙が溢れていた。 初老の紳士は胸もとのハンカチを取り伊さ駒へ渡す。 できるなら自分の手で娘の涙を拭いてあげたいのだが、永い歳月が許してくれなかった。 ハンカチで涙を拭きながら、 「お父さん、時間だから仕事に出かけます。また連絡をします」 初老の紳士は静かに頷く。 席を離れ、 「マスター、父をよろしくお願いします」と言って頭を小さく下げた。 「駒ちゃん、了解!」 伊さ駒はマスターの耳元へ小さな声で囁き、そして、 「お父さん、私は行きます。ゆっくりしていってください」 「ありがとう・・・・・・」 そしてマスターに目で合図を送ると、マスターも目で合図を返した。 「じゃお父さん、必ず連絡しますから」と言いながら父とマスターに会釈をして店を出て行った。 初老の紳士はカウンターを離れ立ち上がりゆっくりと娘へ頭を下げている。 そして石畳の彼方に消えた娘の後ろ姿の残影を愛しんでいるようだ。 やがてカウンターへ戻り席に座るとグラスを握り、じっとワイルドターキーを眺めながら飲みこんだ。 そして微かに目を閉じた。 「マスター、実に美味しいです。今日のワイルドターキー」 「色々あったようですね。今日で何年ぶりの再会だったのですか?」 「はい、二十五年年ぶりだと思います。娘には申し訳ないことをしました」 初老の紳士の目には泪が滲んでいる。 二十五年年の歳月を振り返っているのであろうか。 「遅れましたが私は神谷光夫といいます」 「私は新井啓二です。よろしくお願いいたします」 「今日、娘に会い立派に育ててくれた母親に感謝しています。娘はここへはよく来るのですか?」 「仕事の後や仕事の前に珈琲を飲みに来てくれます」 「そうですか」と言ってワイルドターキーを飲み干す。 「マスター、もう一杯お願いします」 マスターはグラスの氷を変えようとする。 「マスター、もったいないから、このままターキーを注いでください」 「せっかくだからお変えします」 「ありがとうございます」 グラスにターキーを注ぎ神谷の前に置きながら、 「駒ちゃん、明るくてとても頑張り屋だから人気者ですよ」 「そうですか。恥ずかしながら、あの子が小さい頃、私が女を作って家を出てしまって・・・・・・」 「そうですか」 「私は昔バンドマンをしていました。色々なところで演奏をしました。テレビの歌番組でもサックスを吹いていました。 バンドマンは結構モテましてね、女の子に。そしてつい天狗になり若気の至りとは言いながら浮気をしてしまいして・・・・・・。 浮気で済ませればよいものを本気になって、あの子と母親を捨てて家を出ました・・・・・・」 マスターはラッキーストライクをポケットから出しながら、 「煙草をいいですか?」 「もちろん、遠慮なしにどうぞ」 「ありがとうございます。最近こいつは評判が悪くて。でも止められなくて・・・・・・」と言い銀無垢の使い込まれたジッポーライターで火をつける。 そして大きく煙草を吸い込み紫煙を吐いた。 他にお客様もいない静かな店内に、煙草の紫煙が大きな輪になりながら漂っている。 二人は見るともなく紫煙の輪がいびつに揺れ広がりながら天上に消えてゆくのを眺めていた。 「つまらないことを言ってしまったようですね」 「いいえ長い人生ですから、お互いに色々なこともあります」 「マスターにも色々とありましたか・・・・・・?」 にこりと照れ笑いを浮かべながら、 「はい、未だに私は一人者ですから追って知るべしです・・・・・・」 「そうですか」 「ワイルドターキーは何処で覚えたのですか?」 「はい、米軍キャンプで覚えました。キャンプのパーティーでジャズなどの演奏の後、将校にキャンプのバーで飲ましてもらいました。 連中は射撃が好きでね、飲むバーボンは何時もこれでした。私たちにも遠慮なく飲ましてくれました」 「そうですか。ワイルドターキーが誕生したのは確か1940年でした。 創業者のオースティン・ニコズ社の社長トーマス・マッカーシーは当時101プルーフ、 つまり日本のアルコール度数で50.5%の自慢のバーボンを持っていました。 そこに七面鳥狩りのハンターたちが訪れるようになり、その人たちに自慢のバーボンを出してあげたら大好評になりました。 そこでハンター仲間が付けた名前がワイルドターキーと言うわけです」 「そうだったのですか。それで連中が飲んでいた訳だ。さすがにお詳しいですね」 「商売ですから。神谷さんが飲んでいたころは、ターキーの顔が正面を向いていたと思いますよ」 「そうですか、ただ飲むだけですから。そう言われてみるとそんな気がします」 「正面向きは睨まれているようで怖いと言うことで、1999年から横向きに変更されたようです」 「気が付きませんでした」 「当時は余り日本には入荷されておらず、値段も一万円は下らなかったと思います。 ところで駒ちゃんの居場所を何処で知ったのですか?」 「はい、何気なく夜のテレビを見ていたら、神楽坂の芸者さんのお座敷姿が放映されました。 その中に娘が映っていました。二十五年前に別れていても、私には直感で由美子であると確信しました。 そして顔が大写しになった時、見覚えのある右の目もとのホクロが映りました。 私は何日か連絡を取るのを我慢しました。 今更親ですとは言えませんから。でも恥ずかしながら我慢することが出来ませんでした・・・・・・」 ワイルドターキーのグラスを取り、カチーンッ! と音を響かせながら一息にグラスの中のバーボンを飲みほした。 そして目をつむり大きく息をゆっくりと吐き出し、 「勝手なものですね、この歳になり娘に会いたいなんて」 「人は歳をとると気弱になります。そして人が恋しくなるものです」 「マスターも、ですか?」 「私なども好き勝手やってきて、今は一人で生きています」 マスターはワイルドターキーのボトルを手元に寄せ蓋を開けにこやかに神谷のグラスへ注ぐ。 「これは私の奢りです、お近づきのしるしに」 「いえ、それはいけません。伝票につけてください」 「いや、いいです。駒ちゃんのお父さんなのですから。これからもよろしくお願いいします」 「ありがとうございます。二杯で止めようかと思っていたのですが・・・・・・。喜んで頂きます」 「それから駒ちゃんに連絡したのですか?」 「インターネットで調べ神楽坂にある東京神楽坂組合に電話で連絡しました。 でも個人情報に関して厳しい昨今、なかなか教えてくれませんでした。 でも詳しく事情を言い、由美子の名前と母親の名前を言ったら、やっとのことで連絡先を教えてくれました」 「そうなのですね。私たちもお客さまのことを聞かれても、簡単に教えられないのですよ。面倒くさい時代になりましたね」 神谷はグラスを持ちマスターに会釈をしながらバーボンを飲む。 「そして翌日娘のもとへ電話をしました。電話に娘が出て私の本名を言いました。 するとしばらく無言で、微かに電話口から咽ぶ声が漏れてきました。 私は臆面もなく娘の名前を呼びました。 すると漏れるように『今更勝手よ・・・・・・!』と。当たり前ですよね。何を言われても私には返す言葉はありませんから・・・・・・」 「でも駒ちゃんが言っていました、『今ではお父さんしか私にはいません』と。嬉しかったようです、お父さんが元気で」 「そうですか・・・・・・。母親の静江も五年前に亡くなったそうです。由美子も一人、私も一人になってしまいました」 神楽坂の路地裏の灯も落ち、時折行き交う人の声が聞える。 昼間はこの路地裏へも多くの老若男女が通り抜けるが、表通りと異なり夕刻を過ぎ月明かりが落ちる頃は静寂が漂う。 「そろそろ私も失礼しませんと。だいぶ夜更けて来ましたので」 灰皿に煙草を捻り消しながら「どちらにお住まいなのですか?」 「はい、今は板橋区に住んでいます」 「そうですか?」 「あちらこちら転々と暮らしました。今までは情けないことに根なし草のような生活でした」 グラスを手に持ち残りのワイルドターキーを飲みほし、 「人生って帳尻があうものですね。自分が犯したことの報いがやって来る・・・・・・」 一人頷きながらマスターの顔を見てにこりとはにかむように笑った。 マスターも小さく頷きながら、 「そうですね、私もだから未だに独身です。でも神谷さんには駒ちゃんがいる」 「そうですね」 神谷は頷き顔に笑顔が溢れた 「そうですよ」 マスターもにこりと笑顔をこぼした。 「マスターはもてたでしょうね、昔は」 マスターは小さく顔を横に振り笑いながら軽く否定をした。 「神谷さんはミュージシャンだから、引く手あまたで羨ましいかぎりです」 「それが今では幼稚園の送迎バスの運転手です」 「毎日、子供たちと一緒で羨ましい・・・・・・。私なんぞは毎日が夜昼あべこべの生活です」 「最近は幼稚園で何か催しがあると、園長さんに頼まれてサックスを吹いたりしています。 お母さんも園児や保母さんも喜んでくれるのですよ」 すると玄関を開けて若い男女の五人連れが賑やかに来店した。 「すげーッ! 格好いいなこの店。マスターこんにちは!」 「マスター、窓際のテーブル席、いいですか?」 マスターは苦笑いを浮かべながら「どうぞ!」 そして神谷に顔を向けると、 「マスター、今日はありがとうございました。日を改めて又寄らせて頂きます」 「神谷さん、又来てくださいね、きっと。」 「お会計をしてください」 「今日の分は駒ちゃんが後で払うって、さっき帰り際に耳打ちされました」 「そうですか。よろしく伝えておいてください。とても美味しかったと言っていたと」 神谷はカウンターを離れマスターに深々と頭を下げた。 カウンターに置かれた紙袋を大切そうに持ち、そしてハンガーにかけたオーバーコートを手に、 「由美子のこと、よろしくお願いいたします」と言いながら又深々と一礼をした。 「神谷さん、外は寒いですから中で着て行って下さい」 「ありがとうございます」と言いながら玄関の扉を開け立ち去って行く。 マスターは路地から姿が見えなくなるまで見送った。 「マスター、注文をいいですか?」 マスターはお客さんの元へ引き返し注文を聞いた。 「バーKAGURAZAKA」の一日はこれから始まる。 |